白村江の戦と日本

戦の前後で大きな違いが

 

大東亜戦争前の朝鮮半島には、嘗て百済新羅任那という邦があり、
日本と政治的にも文化的にも交流があった。
王族の子供は日本に預けられ、王位を世襲するときには帰国が許された。
近肖古王の時代には、現在の京畿道・忠清道全羅道を含めた、
黄海道の一部地域までを包括する広大な領域を確保した。
この大きな領土を統治するために、地方行政組織を整備した。
日本には学者や技術者を派遣し、学問と技術を伝えた。
その中には、専門分野に通じた博士と称される官職の者もいた。

朝鮮半島は、日韓併合から大東亜戦争が終了して各国が独立するまでの間は、
植民地ではなく、日本国の領土であった。朝鮮人は日本人になった。
創氏改名は、朝鮮人の要望で行われ、強制されることはなく、
日本人として改名することが自由になった。
生まれながらの氏名を、堂々と、名乗り続けた方々も多数いた。
日韓併合は、朝鮮側からの懇願によって行われた、
合法的なもので、世界の諸国に承認されたものであった。

この時、アメリカのルーズベルトは、
日本が朝鮮という厄介者を背負い込んで苦労するところが見たい、
と話したといわれている。朝鮮の無茶ぶりにはアメリカも手を焼いていた。
朝鮮人には、日本人に対する優越主義が根強くあった。
それは、白人至上主義の亜種である、中華思想であった。
支那大陸の国家は、宗主として、朝鮮を属国としてきた。
朝鮮は小宗主として、選良として、
朝鮮人は、中華思想の傘に守られている、というプライドを抱き続けた。

それでも日本は、朝鮮のインフラを整備し、教育環境や医療施設などを整えた。
ハングルを普及させたのも、学校を拡大したのも、日本であり、
そこには、日本人の膨大な血税がつぎ込まれた。識字率が急増し、人口も格段に増えた。
それは、白人至上主義による、
虐殺と略奪、見るに堪えない拷問を繰り返し、文化を破壊し尽くした、
欧米諸国の植民地政策とは、異次元、異質のものであった。

だが、日本の神は、ちょっと躊躇(ためら)った。
それは、聖徳太子が目指した、日本で古くから行ってきた、「シラス」統治の仕方だ。
国民に広く「知らす」ことで、理解を高め、国民を一体化する政策だ。
日本は、大東亜戦争時まで、基本的に、「知らす」政治を貫いてきた。
しかし、これを異国の地で実施するのは、無理があったのではないのか。
確かに、古(いにしえ)の時代には、朝鮮半島から優れた文化や制度がもたらされた。
だが、それは既に過去のことだ。
嘗て、朝鮮半島にあった百済任那には、縄文以来の、多くの日本人がいた。
あらゆる文物は、百済を通じて日本へやって来た。
しかし、白村江の戦に負け、百済を復興することが出来なかった。
これを境に、朝鮮半島の情勢は大きく変わった。
もはや独立した国家は存在しなかった。あるのは属国だった。
この決定的な差異を、その後の日本は、理解しなかった。
日本人が「人類は同等」だと思っても、異国人は必ずしもそうと考えない。
「長い物には巻かれろ」が真っ当な処世訓とされる国だってあるのだ。
豊臣秀吉が冒(おか)した過ちを、再び、繰り返したのではないか。
「正義」も、人によって、受け取り方次第でも、「不義」になる。
歴史と伝統を大事にする国と、そうでない国とでは、価値観の違いが大きすぎた。
膨大な時間と血税、そして貴重な魂を費やした。